有馬公生(ありまこうせい)に贈った宮園かをり(みやぞのかをり)の宝物。
初めて公生を見たときからずっと想い続けてきたかをりの気持ちを思いながら手紙を読むと涙が止まりませんでした。かをりはこの先、公生に起こるすべてのことを側で見て感じていたかっただろうな。公生がもう一度ピアノに向き合えたのは、ほかの誰でもなくかをりのおかげです。
公生のふたたび歩き始める物語だと思って読んでいました。読み終えると、かをりの物語でもありました。
公生に再び旅に出るきっかけを与えたかをりの物語。
かをりにとって道のしめくくりであり、彼女の精一杯でした。
相座武士(あいざたけし)は妹の凪が帰宅すると、公生の調子を訊ねられるほど、東日本ピアノコンクールの予選以降さらに調子を上げていっています。
武士に公生の調子を訊かれた凪の表情は曇っています。
澤部椿(さわべつばき)は渡からかをりの容態をきき、公生がどうしているのか心配します。すぐに瀬戸紘子(せとひろこ)のもとへ行き、事情を説明し、公生を助けてほしいと涙ながらに訴えます。
紘子は慌てて公生の自宅に駆けつけます。
紘子が見た公生はすべてに絶望していました。ピアノを弾く気力などどこにも感じられません。
公生はなんとか学校には行くけれど、音楽室に置いてあるピアノには触れようともしません。
公生は教室の自分の席に着き、教科書を入れる机の中に手紙を見つけます。渡亮太(わたりりょうた)がかをりに頼まれて公生の机に入れた手紙でした。
手紙を開けると、かをりの字で
「カヌレが食べたい」
と書かれてありました。
かをりが書いた字だったので公生はすこしホッとします。しかし、公生の見える世界はモノトーンのままです。
公生はかをりの病室にやって来ました。まともにかをりの顔を見ることはできません。
かをりは公生に話しかけます。公生は言葉がでません。
公生は明るく振る舞うかをりを見ても、前みたいに今がずっと続くなんて思えません。
「ピアノ弾いてる?」
「弾いてない」
かをりは、必死であがこうよ、命懸けであがこうよ、と公生を説得しようとします。
公生はかをりの説得に、こんな状態で弾けたら奇跡だ、とピアノを弾けないと言います。
かをりは奇跡はあるということを証明しようとします。
ひとりぼっちなんかじゃない、かをりは公生に訴えます。
公生はかをりにこんな思いをさせている自分を情けなく思ってしまいます。
2月18日、東日本ピアノコンクール本選当日に、かをりは手術に臨みます。
ピアノコンクール会場の控室。公生はうつむいたままです。紘子がなんとか公生を会場まで連れきたのでした。
井川絵見(いかわえみ)の演奏は会心の出来でした。
絵見が控室に戻ると、相座武士(あいざたけし)が様子のおかしい公生に何か話しかけています。
「弾かなきゃ 弾かなきゃ 弾かなきゃ」
公生は自分に言い聞かせるように何度もつぶやきます。立ち上がると公生の顔はまっ青でした。絵見も公生を心配しています。
「ごめん でも弾かなきゃ 僕はピアニストだから 約束だから」
公生は舞台に向かいます。
着席しても、想像するのは別ればかりです。公生は弾かなきゃ、頭ではそう言い聞かせようとするけれど、動けません。うつむいて顔を伏せてしまいます。会場の観客はざわつきはじめます。
「また 下ばかり向いてる」
公生の耳にかをりの声が聞こえた気がしました。
その時、観客席から、
「ひっちょ」
くしゃみです。椿の独特のくしゃみが会場中に響きました。
公生にも椿の、「ひっちょ」は耳に入って、何度もきいた特徴的なくしゃみが誰のものかすぐにわかりました。
椿のくしゃみで、負のイメージばかりに覆われていた公生の意識が現実の世界に戻ってきます。会場にはみんながいることを思い出させてくれました。
公生は弾き始めます。公生の音は、重く、深く、ゆったりと響きます。
ピアニストなんだから、演奏家なんだから、演奏で応えなきゃ。
公生の音がどんどん豊かに広がっていきます。
公生の持てるすべてで弾いていると、かをりの幻が現れ、、花が散っていくようにひらひらと姿を消してしまいました。
公生は涙が止まりません。観客も絵見も武士も心から公生の演奏に感動しています。
最高の演奏でした。
一通の手紙が公生の手元にあります。
差出人は宮園かをりです。かをりの両親から公生に手渡されたものでした。
拝啓 有馬公生様
さっきまで一緒にいた人に手紙を書くのは変な感じです
君はひどい奴です
グズ のろま アンポンタン
私が初めて君の演奏を見たのは5つの時
当時通ってたピアノ教室の発表会でした
ぎこちなく登場したそのコは
イスにおしりをぶつけ笑いを誘い
大きすぎるピアノに向かい一音を奏でた途端
私の憧れになりました
音は24色パレットのようにカラフルでメロディは踊りだす
隣のコが泣き出したのにはビックリしました
それなのに君はピアノをやめるんだもの
人の人生を左右しといてひどい奴です
グズ のろま アンポンタン
同じ中学だと知った時は舞い上がりました
どうやれば声かけられるかな
購買部にパン買いに通おうかな
でも結局ながめているだけでした
だってみんな仲良すぎるんだもの
私の入るスペースないんだもの…
子供の頃に手術をして定期的に通院して中一の時に倒れたのをキッカケに入退院の繰り返し
病院で過ごす時間が長くなりました
ほとんど中学に行けなかったな
あまり自分の身体が良くないのは分かってました
ある夜病院の待合室でお父さんとお母さんが泣いてるのを見て私は長くないのだと知りました
その時です
私は走りだしたのです
公開を天国に持ち込まないために好き勝手やったりしました
怖かったコンタクトレンズ
体重を気にしてできなかったホール喰い
偉そうに指図する譜面も私らしく弾いてあげました
そして一つだけ嘘をつきました
宮園かをりが渡亮太君を好きという嘘をつきました
その嘘は
私の前に
有馬公生君
君を連れて来てくれました
渡君に謝っといてね
まー でも渡君ならすぐ私のことなんか忘れちゃうかな
やっぱり私は一途な人がいいな
友達としては面白いけど
あと椿ちゃんにも謝っといてください
私は通り過ぎる人間で変な禍根を残したくなかったので椿ちゃんにはお願いできませんでした
というか
「有馬君を紹介して」
なんてストレートに頼んでも椿ちゃんはいい返事をくれなかったと思うな
だって椿ちゃんは君のこと大好きだったから
みんな とっくに知ってるんだから
知らなかったのは君と椿ちゃんだけ
私の姑息な嘘が連れて来た君は想像と違ってました
思ったより暗くてひくつで意固地でしつこくて盗撮魔
思ってたより声が低くて
思ってたより男らしい
思ってた通り優しい人でした
度胸橋から飛び込んだ川は冷たくて気持ちよかった
競争した電車に本気で勝てると思った
音楽室をのぞくまんまるの月はおまんじゅうみたいで美味しそうだった
二人乗りで歌ったキラキラ星は音程がズレてた
声楽は絶望的だね
夜の学校って絶対何かあるよね
雪は桜の花びらに似てるね
演奏家なのに舞台の外のこと心がいっぱいなのはなんかおかしいね
忘れられない風景がこんなささいなことなんておかしいね
君はどうですか?
私は誰かの心に住めたかな?
私は君の心に住めたかな
ちょっとでも私のこと思い出してくれるかな
リセットなんかイヤだよ
忘れないでね
約束したからね
やっぱり君でよかった
届くかな
届くといいな
有馬公生君
君が好きです
好きです
好きです
カヌレ全部食べれなくてごめんね
たくさん叩いてごめんね
わがままばかりごめんね
いっぱいいっぱいごめんね
ありがとう
P.S.
私の宝物を同封いたします
いらなかったら破って捨ててください
公生を取り囲む人たちが公生に、もう一度輝きを取り戻してほしいと願い、再び旅に出る物語です。
公生とかをりのすべての場面は、公生だけが勇気づけられたり、ドキドキしたりしている、とばかり思っていました。公生と同じかそれ以上に、かをりは公生と近い距離で話せること、感情に触れられること、すべてがとっても大切なひとときだったんだと思えます。公園で公生を見たときのかをりの涙。いまなら分かります。
すべての場面をかをりの視点で読んでいくと、どれもが切ないです。
公生はあきらめていたかをりの人生をとてつもなくカラフルにしてくれました。
かをりは公生の前で目一杯、椿のように明るい積極的な女の子でい続けました。かをりは心残りをすこしは減らすことができたんでしょうか。意識が遠のくとき、たくさん抱えている後悔のいくつかを消すことができたんでしょうか。
公生はこの先ずっとかをりを胸の中に抱えて歩いていくと思います。
心に残る物語です。
終わりです。
新川直司 四月は君の嘘 11巻
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